「グランドスラム」

「じゃあ…終わりにしよっか。」

その言葉で僕は結葉と一緒に死ぬことを決めた。ずっと辛かった。仕事が異動になってから新しい部署は全く慣れなくて、仲の良かった同僚とも、いつも美味しい飯屋に連れて行ってくれる優しい上司もいなかった。頼れる人は結葉しかいない。

結葉とは高校生の時に出会った。決して目立つような容姿ではなかったけれど、僕を虜にするには十分だった。いつしかこれが好きという感情でずっと一緒にいたいと思った。出会って1年くらい経ったとき、告白したら「私も好きだよ。いつ言ってくれるのかなって思ってたよ。」なんてちょっと嬉しそうに泣きながら言ってくれた。

結葉といる生活が当たり前になった。僕は高校を卒業して、今の会社に就職した。そこで出会った同僚とも、上司とも仲良くやっていた。結葉は大学に進学して、好きだった文学を学んでいた。

やがて僕らは一緒に暮らすようになった。ずっと同じ時間を過ごすことは難しかったけれど、夜は一緒に眠った。時々合う休日では、2人が好きな酒を飲みながら映画を見る。それだけは続けている唯一の約束だった。些細なことで喧嘩をすることもあったけれど、それなりに楽しかったし、幸せだった。

結葉が卒業するあたりに、ずっと世話になった部署を異動しなくてはいけなくなった。今の場所よりも少し離れてしまうから、結葉と一緒に暮らすのは難しいかなと思った。

そのことを話したけれど、「ついていくよ。今は簡単に友達にだって会えるし、就職だってそっちですればいいし。」そう言って結葉は2人で住むアパートの近くの会社に就職した。

次第に僕らが同じ時間を過ごすことは少なくなった。残業が多い今の部署では、2人が一緒に眠る時間はなかった。結葉も新しい環境で忙しい様子だった。

時々、同じベッドで眠る背中から、鼻を啜る音が聞こえることがあった。それにお気に入りだと言っていた靴が汚れていたり、上着の裾がぼろぼろになっていることが次第に多くなった。結葉に聞いたこともあったけれど、「なんでもないわ。ちょっと今の仕事が大変で…うっかり裾を引っ掛けちゃったのね。一緒の時間が取れなくてごめんね。」なんて言うから深くは聞けなかった。

そんな中、僕は結葉に打ち明けた。もう死にたい、と。

結葉にも仕事があって、結葉のコミュニティが形成されていて、友人だっている。僕だけを見て生きることはできない。

でも結葉も辛いのではないのだろうか。深くは聞けなくてもなんとなく、結葉は会社で浮いてしまっているのではないかと気がついた。そんな結葉を救うこともできないなんて、自分自身に精一杯になってしまっていることが、とてつもなく情けなかった。

もう疲れてしまった、そう彼女に話すと少しだけ微笑んで言った。そしたら彼女も、じゃあ終わりにしようって言ってくれた。

2人で少しだけ凝った酒を飲んだ。結葉は酒を作るのが次第に好きになっていった。僕はいつも缶チューハイやビールしか飲んでいなかったけれど、結葉はいつも色鮮やかな酒を作ってくれた。結葉はグラスに酒を注いでくれた。

「これはなんて言うの?」

「グランドスラム。リキュールにベルモットを混ぜたお酒なの。ずっと作ってみたかったんだ…じゃあ乾杯。」

僕らはお気に入りのグラスを少し交わし、口に運んだ。これが彼女飲む最期のお酒だと思うと、特別な味がした。

「ねえ…どうやって死のうか?」

「あー…簡単に死ねそうなのは飛び降りかな。」

ここはちょっと郊外で周りは自然豊かだった。隣の住人だって面識はなかったから、怪しむことはないだろう。2人の最期を誰にも邪魔されたくない。それに飛び降りなら迷惑がかからない気がする。

「ここからでいっか。」

僕は部屋のベランダに手をかけた。涼しい秋風が部屋に入る。月夜に照らされた風は随分と冷えていた。けれど今は心地が良かった。

「…遺書でも書こう。一応ね。」

そうね、と彼女は言い2人で日焼けした、どこかのスーパーのチラシ裏に文字を綴る。

「ねえ、結葉…本当に僕と一緒でいいの?」

「良いのよ。私はずっと一緒にいるって言ったでしょう?…それより最期が私で良いの?」

「…結葉と死ぬなら本望かな。」

本心だった。彼女となら一緒に死んでもいい。そう思えるほどの人だった。ふっと微笑んで変わってるわ、と言った。

書き終えた遺書をわかりやすいように机に置き、少しだけ部屋を片付ける。グラスも丁寧に洗い、冷蔵庫に余った酒をしまう。散らばった洋服と小説を整頓する。僕らの姿はもう誰にも見えないかもしれないけれど綺麗なまま死にたかった。

2人で手を繋いでベランダに向かう。これでやっと終われる。

「結葉…ありがとう。」

「何よ急に…私もありがとう。」

ベランダの割れそうなプランターを逆さまにし、階段のように登る。突如警告音のような不快な音が鳴り響いた。振り返ると部屋の隅から光が漏れている。冷蔵庫か。慌てて閉めに行くと結葉は笑った。

「あははっ私たちまだ死ぬには早いのかもね。」

冷蔵庫を気にしている程度じゃまだ死ねない。僕もつられて笑った。もう少し彼女と生きてみようか。彼女がいるなら話くるないはずだ。

僕はちょっと泣きながら結葉を思い切り抱きしめた。結葉もちょっと泣いていた。

Posted by yocto